映画は主役だけではつくれない。脇役がいてこそ成立する。重厚で存在感あふれる脇役で知られたのが、俳優の芦田伸介(1917~99)だ。松江市出身で、市から名誉市民の称号が贈られている。
中国地方からは、日本映画を代表する監督、俳優らが多数輩出しています。その映画人たちは戦争とどう向き合ったのか。戦後80年を機に紹介します。
芦田家は代々、松江藩の剣術指南役などを務め、父親も剣道の教師。芦田も厳しいしつけを受けて育った。松江商業学校(現松江商業高)を経て、現在の東京外国語大学に入学するも中退。1938年に旧満州(中国東北部)に渡る。そこで舞台を見て感動して、一大決心をする。
「私の運命はまるで回り舞台のように、音をたてて変わっていった。芝居をやろう! 生涯をかけて、芝居をやろう!」(自伝「歩いて走って とまるとき」から)
発電所などを手がける満州電業に勤める傍ら劇団に加わった。そこで出会ったのは生涯の友となる森繁久弥であり、その後の妻であった。
敗戦は旧満州で迎え、約1年後の46年7月、乳飲み子を抱えての脱出行をはかる。芦田と仲間たちは列車を降ろされ、徒歩で野宿を重ねた。行く先々で兵隊や暴民に襲われ、金銭や衣類、食料を奪われていった。
ある時は中国人の一団がやっ…